芦屋のクラシック音楽コンサートホール

兵庫県芦屋市東芦屋町3-9
TEL:0797-55-0730

イベント情報

ブログ

2021.07.25

2021.7.25 < チェリスト藤森亮一の世界(第1回)>

茶黒くくすんだ色のチラシに、「藤森亮一がピアニスト横山美里とともに追い求めるチェロとピアノの美の新境地」とあった。この色調が藤森の求める美の新境地にマッチしているのだろうか。昨日、Salon Classicで弾いた二人の演奏を聴いて見事にマッチしているのを発見した。バッハの無伴奏チェロを聴いていると、そこには艶々しさよりもどこか枯淡の味が漂う。天の岩戸から天照大御神が現れる序曲に映った。次のショスタコーヴィッチのチェロソナタ、続くプロコフィエフのチェロソナタ、これら二人の作曲家はどちらもロシア人、このチラシのどす黒さにどこかロシアを暗示している部分はないか。重厚な精神性を宿す土壌を見る思いがした、ショスタコに耳を澄ましている時、私に不意に閃いた形容詞は幽玄だった。幽玄といえば能だが、まさにこれはロシアのお能だった。消え入るような無音に近い有音。ピアノが囃子のように後方で響く。そこに醸し出されるのは豊穣にして静寂に満ちた優雅な世界だった。次のプロコもそれに近い。ショスタコが陰ならこちらはどちらかといえば陽。チェロとピアノが掛け合う滑稽味のある狂言といったところか。私には藤森が追い求めた美の新境地とはこのロシア版、能と狂言の世界に映った。

2021年7月25() 14時開演(13時半開場)

会場:サロン・クラシック

チケット:5000円(税込)要予約。申込先着30名様限定

出演:藤森亮一(チェロ) 横山美里(ピアノ)
曲目:J.S.バッハ「無伴奏チェロ組曲第1番ト長調BWV1007」、ショスタコーヴィチ「チェロ
         ソナタOp.40」、

    プロコフィエフ「チェロソナタOp.19

            

予告:第2回 20211016() 14時開演(13時半開場)
曲目:シューマン「5つの民謡風の小品Op.120」、ブラームス「チェロソナタ第1番ホ短調Op.38」、「チェロソナタ第
   2ヘ長調番Op.99

2020.11.09

藤森亮一(チェロ)&横山美里(ピアノ)デュオ・リサイタル

2020年11月9日 (月)
藤森亮一(チェロ)&横山美里(ピアノ)デュオ・リサイタル
 
今日(11/8)は、19世紀初頭のウィーンのサロンに自分がいるような錯覚をした。ハプスブルグ家の貴婦人然とした横山美里と貴公子の藤森亮一、この二人のコンビが、今日はベートーヴェン中期の作品チェロソナタ第3番とショパンの数少ないチェロソナタをヨーロッパ風の(と思っている)Salon Classicで演奏したからだ。
ベートーヴェンを聴いているうちにひとりでに曲が藤森の容貌に思えてきた。何かを内に秘めたような壮大で希望に満ちた輝いた顔、そこに優美だが威厳のあるピアノの横山の顔が重なった。次はショパン、今度は横山の容貌が先にきた。その貴婦人然とした顔は夢想的で、ロマン的な高揚感で輝いた曲そのものだった。ショパンは自らが華やかなピアノを弾くから、同じく華やかなヴァイオリンよりも低音で包容力のあるチェロを好んだのだろう、それが今度は藤森の顔に思えてきた。
ソナタとは別に弾いた横山のピアノソロ、ショパンの「舟歌」に心底痺れた、
なお、左の壁に掛けた30号の絵はこのお二人と読響の小森谷巧コンサートマスターの三人で作るThe Grand Trioの演奏ぶりを私が10年前に描いたもの。
 
~~~プログラム~~~~~
ベートーヴェン:  モーツァルト「魔笛」より「恋を知る男たちは」の主題による
7つの変奏曲 変ホ長調 WoO 46
ベートーヴェン:  チェロソナタ第3番 イ長調 Op.69
第1楽章 Allegro, ma non troppo
第2楽章   Scherzo : Allegro molto
第3楽章   Adagio cantabile – Allegro vivace
~~~~~~~~(休憩)~~~~~~~~
ショパン   :   舟歌 嬰ヘ長調 作品60(ピアノソロ)
ショパン   :  チェロソナタ ト短調 Op.65
第1楽章    Allegro moderato
第2楽章    Scherzo : Allegro con brio
第3楽章    Largo
第4楽章    Finale : Allegro
 

2020.11.06

伊藤順一ピアノリサイタル

 M77  2020年11月6日 (金)

伊藤順一ピアノリサイタル 2020年11月3日(祝、火)
芸術の秋といえどもコロナ禍の下ではもう一つ冴えない。芸術など不要不急の最たるものとして遠ざけられそうな今日のムードだが、こんな時こそ逆に音楽で気分を一掃したいものだ。今日、文化の日、Salon Classicでベートーヴェンがコロナの「悲愴」な思いを耳一つで心の静謐に変えてくれたのだから音楽はありがたい。この曲はベートーヴェン自身が「悲愴」と名付けたらしいが、彼はこのピアノ曲で強靭な思想を表現したかったのだろうか。
伊藤順一のいつもの優美なショパン曲に比べてこれはいささか硬派の部類に感じたが、それだけに本日はこの曲が一番印象に残った。多くの拍手に応えて次から次へとにこやかにアンコール曲を繰り返した伊藤は、コロナのため来年に延期されたショパンコンクール(ポーランド)の本選へ向け今日も練習に余念がなかった。
アンコール曲
ブラームス:間奏曲 op.118-2
プリュードン:昔の物語
ラヴィーナ:初めての告白
ショパン:ワルツ5番
 

2019.12.26

海野幹雄(チェロ)&宮下朋樹(ピアノ)デュオ・リサイタル

2019年12月26日 (木)

海野幹雄(チェロ)&宮下朋樹(ピアノ)デュオ・リサイタル
今年最後のSalon Classicでのコンサートは昨日の海野幹雄(チェロ)&宮下朋樹(ピアノ)のデュオ・リサイタルで終わった。最後を飾るに相応しい濃厚な味を見せてくれた。
バッハの曲やシューマンの曲は比較的慣れ親しんでいるが、ブリテンの無伴奏チェロやグリーグのチェロソナタは非常に新鮮だった。今日の印象は後々まで残るだろう。
これらの曲の印象を言葉にするのはきわめて難しいが、ブリテンの曲を聴いているうちに、そのどこかおどろおどろした感じがロシアの画家、ワリシー・カンディンスキーの抽象画、コンポジションに通じるように思ったし、またグリーグの野性味のあるパワフルな曲を聴いているとスペインの画家、ホアン・ミロの抽象画やスイスの画家、パウル・クレーの絵が思い出された。明るさよりもむしろ内面的な深遠さを漂わすある種の暗さがこれらの曲にも絵にもある。そこが印象的で私の好みだった。

2019.06.10

The Early Summer Joint Recital 新日本フィルのチェリスト、森澤泰氏を迎えて

2019年6月10日 (月)

The Early Summer Joint Recital 新日本フィルのチェリスト、森澤泰氏を迎えて
今日のショスタコヴィッチのチェロソナタに感じ入った。横浜からきたジュリアード卒の旧知、森澤泰(ゆたか)君が2百年以上も前のチェロを用いてこの重厚な曲をSalon Classicで伊東くみさんのピアノで弾いた。ショスタコヴィッチは、解説によると1875年生まれ、私の祖父(1876)の時代の人だ。激動のソ連時代を生き、悲劇とパロディ、哀しみと不屈精神を経験しただけに、このソナタは感傷的で叙情的な部分もあるにはあるが、重苦しい内面的なエネルギーに満ちた部分が多く、真面目とパロディが交互に繰り返えされた。使われたチェロも現代のチェロとはまったく異質、別の楽器かと思うほど繊細な音色で、曲の重厚さとは正反対、それだけに曲の重さが目立った。このような曲を生で聴くと精神が躍り、感情が叫び出した。他の出演者にも触れたいが、長くなるので、今日は割愛する。

2019.06.02

梯 剛之ピアノリサイタル

 M70   2019年6月2日 (日)

梯 剛之ピアノリサイタル
首も動かさず口も固く結んだまま無表情に弾くその静謐さがかえって音楽に大きな表情を与えた。音と音の間に音の雫のような音が一杯詰まり、さすが日本の小学校を卒業するなりウィーン国立音楽大学準備科に入学し耳を鍛えただけあって音の感度は一般の日本人とは大分違うように見受けた。今日2時からSalon Classicで、語りを入れながら、弾いた盲目のピアニスト、梯 剛之のピアノ演奏にぞっこん心酔、陶酔した。
最初のモーツァルトの「幻想曲ニ短調」、出だしを聴くなり黒真珠のネックレスを思い浮かべた。なんと美しい個々の音の光沢。ドビュッシーの「月の光」を聴いては壁に掛けた拙画、「ドビュッシーに寄せて」の月の雲間を照らし波間を照らす夜のしじまと重ね合わせた。
梯の語りによると、ショパンは幼少の頃、両親が音楽を聞かせると妙な奇声を発したとか、その頃からショパンには人声も犬猫声も強く音楽と結びついたものらしい。「子猫のワルツ」がその一例だが、命名したのは出版社だ。シューマンの「トロイメライ」や「クライスレリアーナ」を聴き、その一方でショパンの「舟歌」や「バラード」を聴いて私は自分の好みはどちらだろうかと自問自答してみた。どちらも甘さでは共通しているが、シューマンにはその中に酸っぱさが、悲しさがショパンには尊さが、高貴さが感じられショパンに傾いた。
盲目の梯にはホールの雰囲気が手に取るように分かるのだろう。拍手はもちろん、どよめき、息遣いも直に感じられたのだろう、アンコールにシューベルトの「楽興の時」「即興曲」、ショパンの「ノクターン」二つ、計4曲もが奏でられた。

2019.05.20

横山幸雄ピアノリサイタル

2019年5月20日 (月)

横山幸雄ピアノリサイタル
この精力的で、ダイナミックかつドラマティックな演奏にホール全体がジュークボックスのるつぼと化しました。中におられる聴衆の皆様も熱く熱せられている感がありました。昨日(2019.5.18)は今をときめくピアニスト、横山幸雄さんがSalon Classicにおいてオールショパンプログラムで演奏してくださいました。ギネスブックにも載る同氏は先日の連休に東京オペラシティーで三日三晩をかけてショパンの全曲240曲を弾かれましたが、今日はそのうちのいくつかをここで披露してくださいました。もう心身ともにショパンに成り切りショパンを語りショパンを奏でられました。ここでは多くのアーティストがショパンを弾きますが、横山さんの演奏は一味も二味も違い素晴らしいものでした。

2019.02.12

アレーナ・チェルニ、河村典子、白土文雄の諸氏による室内楽ワークショップ

2019年2月12日 (火)

昨日の、アレーナ・チェルニー、河村典子、白土文雄の諸氏による室内楽ワークショップを聞いて非常におもしろくまたためになった。
アレーナのピアノレッスン風景を岡目八目でみていると、実に表情豊かなジェスチャーを交えて指導している。耳が遠いのでその説明は十分聞き取れないが、アレーナが生徒に「印象派の絵って解る?」と質問すると、生徒が「何かぼやっとした…」とか何とかと答えている。それでは不十分だと言ったと思うが、このやり取りを聞いていて、ハハン、生徒さんの彼女は楽譜を棒読みしているのだ、もっと詩情を養わなければいけないなぁと思った。ピアノの先生である家内にピアノの先生は「楽譜の棒読み」だけを教えては不十分だといったら、不思議なことに今日はあっさりこの発言を認めた。この話を河村さんにすると、室内楽も一緒、それはいわば劇です。台本を読んでいるだけでは不十分。他の人の音を聞いて丁々発止、音のやりとりすることが肝心なのですと言われた。絵を描いていても単に写生をするのでなく、その空気、雰囲気を出すのが味だからと思ったものだ。

2018.11.10

武岡 徹 コンサートシリーズVol.5

 66   2018年11月10日 (土)

武岡 徹 コンサートシリーズVol.5
齢、傘寿(数え80)を過ぎ米寿(数え88)に近づかんとする人が独唱会を開き大勢の前で歌わんとする気持ちはどんなものか。もう後何回できるかと案じながら、一回、一回、精を込め、いよいよ念入りに仕上げるものではないだろうか。今日の武岡徹氏の5回目のコンサートを聴きながらそんなことを思った。おそらく選曲にも時間をかけ、自分の気持ちをそれらの曲に託されたことと思う。
いつものように華奢な身体に黒いタキシード、黒の蝶ネクタイ、リラックスしつつも直立不動。登士子夫人の伴奏で歌う八十数歳の重みと気品が辺りに漂う。詩詞を十分に噛みしめ、その心を、美しく抑揚の効いた静かで柔らかいテノールで歌い上げる。男性に対してははばかるが、清楚という言葉が高齢の同氏には一番似合う。凜とした清楚とでもいおうか。
数あるプログラムの中でも私の心をもっとも打ったのは「埴生の宿」、それに、わらべうたの「通りゃんせ」と「お江戸日本橋」。私自身が同氏と歳が近いせいもあろうが、幼年、少年時代に歌い聴いた歌はこんなにも歳が行ってからいいものだろうか。

2018.10.22

泉ショヴィノー真理子ピアノ・リサイタル

2018年10月22日 (月)

2018.10.20 泉ショヴィノー真理子ピアノ・リサイタル
ニースの夕暮れの海から伝わってくる芸術の秋、南仏に住んで24年になる泉ショヴィノー真理子が昨年に続き今年もSalon Classicに戻ってきた。サロンはもう観客で弾けそう。
プログラムは実にヴァラエティに富んでいた。どの曲にも共通していたのは秋の哀愁、
しみじみとそこはかとなく聴かせてもらった。本当にそつのない演奏だった。長く異国に住みながらも日本の哀愁が忘れられないのだろうか、いや、長くなればなるほど故郷を想う心はいや増すのかもしれない。日本の哀愁を帯びた曲をフランス人はどのような感覚で聴くのだろうか。
 

2018.09.17

イヴ・アンリ教授リサイタル

 

夜空に蒼く輝く月、その光に照らされた白い雲片。その下に広がる喜びの島、月の光が島の稜線を照らしている。海はどこまでも暗く黒く底に向かって天に向かって神秘の光を放っている。海上に生起する寄せては返す虹の波。岸の高台で水を吐く噴水。独り高く上がっては崩れ落ち水盤を満たす。水の反映である。これはドビュッシー没後百年を記念して私が描いた絵の詩的散文である。

今日のイヴアンリのピアノを聴きながら絵に共通しそうな楽想に思いを馳せていた。ショパンがピアノの詩人と呼ばれ、画家のドラクロワと色彩感について多いに論じ合ったように、ショパンの後継者のドビュッシーもまたいかに音で色彩を出すかで苦しんだようだ。イヴアンリの演奏を聴いていると 、曲の楽想がそもそも脳裏になければ、それを表わす色彩感も何もあったものではない。音楽を志ざす人は音楽以外にもっと詩や文学や絵画にも関心を示すべきではないかなと思った。天に向かい、水底に向かって放つ神秘の色は最弱の、音の無い長い音ではないだろうか。

2018.07.11

David Korevaar Solo Recital とThe Summer Joint Recital

2018年7月11日 (月)

David Korevaar Solo Recital とThe Summer Joint Recital
今回のデイヴィッド・コレヴァーの公演は今晩で全て終わった。ご苦労さん、お疲れ様と我が家で缶ビールと19度の日本酒で乾杯した。もう二十年以上も付き合っているアメリカの息子のような存在のピアニスト、ディヴィッド54歳。彼と酒を飲んで、今日は新しい単語を学んだ。Metierだ。彼曰く、「ボクのMetierは音楽だけど、たかおさんのmetierは創造だ。」と。「Metier?、何じゃ、それは」と訊くと「専門分野のこと」だという。かれは私のサラリーマン時代から知っていて、会社から帰ってきた時のあの浮かん顔の隆夫が、定年後、生き生きして、音楽や絵画、詩、エッセーに手を出している。この男は道を間違ったらしいと思っているらしい。まぁ、それは当りだろう。家内ともども話が弾んで今夜は楽しいひとときを過ごした。
さて、本日(2016.7.3)の本論。今日は2時からSalon Classicでディヴィッド・コレヴァーのソロリサイタルと18:30からディヴィッドを客演にしたジョイント・リサイタルがあった。
今晩のジョイント・リサイタルは私という素人音楽鑑賞家にとっては大変よかった。アマチュア…とプロの腕前が比較できたからだ。以前にも言ったことだが、日本人というか素人のピアニストはみな、鍵盤を叩いた時、パシャという、水面に皿をぶつけたような、水が四方八方に飛ぶ、拡散した、ひしゃげた音がする。一方、プロのディヴィッドの音は、水底を目指したような、ゴボゴボと言った求心的な音がする。一方は拡散、他方は求心と丸反対の音がする。そんな風なことを考えながら、今日のイサイタルに臨んでいた。
ディヴィッドのソロ演奏会の最初はベートーヴェンの『熱情』。これを聴くなり、あぁ、これはナイアガラ瀑布だと思った。高みから何百もの筋となって大音響とともに落下する滝、ごつごつした黒い大岩に当って砕ける水煙、次に調子変わって静かに流れる抒情的な川、かつて見た渓谷の姿を思い出す。再度、また滝、観光船が上下左右に揺れ動くミストの中、綺麗な虹が射した。そんな勇壮な姿を『熱情』に見えた。
処変わって今度は1924年のナポリ。南イタリアは昔のギリシャの領土。そこに根付く土俗的で土臭い世界。この世に生きた限りは上も下もあるものか、古い教会の前で男女が歌えや踊れやと大変な賑わい。マリオ・カステルヌオーヴォ=テデスコのナポリ狂詩曲だ。いつ果てるともなく戯れるムードにこちらが酔う。
次はベニス。ゴンドラに揺られ、舟歌を聞きながら、たゆとうとした気分で、しばし周囲の海水の動きを追う。波頭はみな同じ大きさで一面に統一感があり、青々した紺碧の海に吸い込まれそう。まさしくデイヴィッドの弾くピアノ音こそ、底に向けて求心的に発する統一的なゴボゴボという音だった。これがピシャでは締まらない。マネの印象画を見るようなショパンの舟唄だった。

2018.07.09

Duo Recital in summertime

2018年7月9日 (月)

Duo Recital in summertime
チャス・ウエザービーはいかにもプロのヴァイオリニストでエンターテイナーであった。
プログラム(演奏曲目)を見て、聴き覚えのある曲は「マスネのタイスの瞑想曲」ぐらいで、後は曲名にいくらか見覚えがあっても曲まで脳裡に浮かんでこない。いわんや最初のレスピーギのヴァイオリンソナタなど曲名を見ただけではさっぱり分からない。それだけに好奇心が湧くし、実際に新鮮だった。ひょっとしたら今日の曲はすべて通向きの曲ばかりだったかも知れない。ヴァラエティーに富んでいて同じ弾き手による同じヴァイオリンだが醸す雰囲気はまるで違っていた。それはいわば焼き物の違いといってよかった。有田もあれば久谷もある。萩、備前、織部、美濃、益子が順に並んでいるようなものだった。
プロだけあってピアノ音にかき消されないパワフルな演奏だったし、背を屈伸させての演奏スタイルはそれだけでエンターテイメント性があった。
今回(2018.07.08)、Salon Classicでチャスのコンサートができたのは偶々で、チャスとコロラド大で同僚のディヴィッドがSalon Classicでコンサートをするのに合わせ、イタリアミラノから今朝、伊丹空港入りしたもの。7/10には広島でチャスがコンサートマスターを務めるオーケストラ演奏がある。アーティストも今やワールドトラベラーで休まる暇もない。でも異国の空で軽く一杯やるのも乙なもの。

2018.06.16

イグナツ・リシェツキ ピアノリサイタル

 2018年6月16日 (土)

イグナツ・リシェツキ ピアノリサイタル2018
今日は、最初のピアノ演奏を聴くなり度肝を抜かれた。月や花を愛でるような繊細な曲ではない。ハワイ島の火山爆発でも思わしめるような赤い大胆な曲である。書に譬えれば、楷書でも行書でも草書でもない。また隷書でもない、あえていうならふとぶととした篆書だろうか。これはあのレナード・バーンスタインが作曲したピアノ・ソナタだ。米韓軍事演習でも見ているような気分になりその無機性に陶酔した。またシマノフスキやスクリャービンの曲を聴いていると、太陽の出ている時に降る雪、つまり「風花」を見た。この風花に、太陽の光が当たると、雪が風に舞ってキラキラと光りながら空から降ってくる、そんな思いのする音の結晶だった。宝石に代表される鉱物の結晶が無機質に明るく輝いたかと思うと一転して湿っぽく有機的に輝く、そんな感じがした。ロシアのピアノ曲は複雑系だろうか、カオスの中にはっきりした美が認められる。プログラムにある通り、東欧文化のルーツを見る思いがした。
Salon Classicで今日ピアノを弾いたのはポーランド人のイグナツ・リシェツキ、小柄で日本語も喋る愛すべきにこやかな男性、その彼が私にはピアニストである前に詩人と映った。リズム感だけでテクニックだけで弾けるわけがない。と思って経歴を見ると、彼は作曲家でもあり指揮者でもあった。なるほどと合点が行った。舞台裏で話しているときの彼は剽軽そのものだが、一旦ピアノに向かうと極めて真摯に音楽と向き合う。熱演というより余裕たっぷりにピアニスト魂を発揮する。これこそが音楽なのだ、ピアノなんだと思わしめる。東京藝大の澤和樹学長と共演するのもすっきり頷けた。
 

2018.05.01

小林真理メゾ・ソプラノリサイタル ピアノ 秦はるひ 詩の朗読 山村雅治

2018年5月1日 (火)

小林真理メゾ・ソプラノリサイタル ピアノ 秦はるひ 詩の朗読 山村雅治
今年の3月25日はドビュッシー没後百年でした。それを記念して昨日(4/29)はSalonClassicで東京藝術大学出身のお二人、一人はフランス在住の小林真理さん(メゾソプラノ)、他方はその後母校で教鞭も執られた秦はるひさん(ピアノ)、それに芦屋で有名な山村サロン(一昨年閉館)のオーナーだった山村雅治さんに詩の朗読をして頂きました。これらのみなさんの歌心、詩心に刺激され、私も未完成ながら、この日のために描いた油絵(海底に沈んだナルシス)を壁に掛けて絵心で参加しました。象徴派のドビュッシーを歌心、詩心、絵心で攻めました。

2018.04.05

室内楽とコンチェルトの夕べ

2018年4月5日 (木)

室内楽とコンチェルトの夕べ
昨日に引き続き今日(4/4)は西宮フレンテホールで「室内楽とコンチェルトの夕べ」があった。
音楽に疎い私でも二日続けて同じ曲を聴くと対比の一つもしたくなった。
今日の最初はグリーグ。これがかれの故郷の北欧らしさと言うものだろうか、中間辺りから悲しいまでの切なさと哀愁が私の胸に去来した。二番目は昨日と同じポッケリーニ。好みは人それぞれだろうが、私には今日の方がよかった。ダニエルの高いヴァイオリンが頭に響き、ニコラの低いチェロが腹に響く。もう一つのチェロはキャサリンが指ではじいている。次の二つのピアノコンチェルトはどちらもモーツァルト。甲乙つけがたく、どちらもふんわりとした音の泡に身を任せながら安逸をむさぼっている感じで聴き入っていた。

2018.02.05

Chamber Music Concert

2018年2月5日 (月)

Chamber Music Concert
バッハやハイドン、ベートーヴェンなど250年から300年も昔のヨーロッパの音楽を何の違和感もなくむしろ感動を持ってわれわれ現代の日本人が聴けるというのは不思議といえば不思議である。今日はそれらによる曲を、設立後ちょうど一年になる豊中市立文化芸術センターの小ホールで聴いた。木板の横線が美しいステージにピカピカと光るサクソフォン、真っ赤なドレス、褐色のチェロ、黒光りするピアノと色も鮮やか、目も耳も十分に楽しませてくれた。最後のフォーレの曲は1922、23年の作曲でフォーレ何と77才の時の曲。ちょうど96年前の1922年2月2日、「老いよ、消え失せろ」と自らを叱咤して作曲したという。それに感動しながら聴いた。

2018.01.10

David Korevaar Recital

 

David Korevaar Recital 

今日のベートーヴェン私にとって圧巻であり最高だった。今日の演奏を聴いてあらためてベートーヴェンが好きになった。精神性が強く哲学的で思想的、かつ深遠で男性的でもあった。それはそうだろう、最初の曲から「葬送の勇ましい行進」が続くのだから。今日の主催は河合楽器のカワイ梅田で、そのJouerホールであった。弾くときのデイヴィッド・コレヴァーの表情がいい。皺を寄せたような額、モゾモゾ動く口元、キリリと鋭角に動かす首、彼はもうすっかり自分で作った自分の世界にどっぷり漬かっている。その世界にこの私も引き込まれた。それは今日の世界でもあるが、ベートーヴェンの活躍した18世紀のヨーロッパでもある。つまり私はいま、今から250年ぐらい前のヨーロッパにいる。でも当時、今日のようなピアノがあるわけがない。18世紀の再現が何と21世紀のカワイピアノSK-7 (Shigeru Kawai のフルコンサートピアノ)でなされたのだ。18世紀と21世紀の合作である。私はもううっとりとその柔らかく鮮明な音色に酔ってしまった。

ディヴィッドには詩人の魂が宿り、絵心が備わっている。それなくして技術論だけでは片づけられない。時間というキャンバスに音で描く非イメージのイメージを彼の絵心が描いている。音楽をいつもイメージ化して聴く私にはそれが解る。
今回のプログラムノートは私が訳出した。音楽が専門でない素人の私には難しすぎて、単に字面だけで訳したものだったが、今日の演奏を直に聴いてその意味がよく解った。なるほどこれら四曲が上手くドラマチックに配列されたものだと思った。以下はホームページ
www.tmcj.co.jpを参照して頂きたい。
David Korevaar, pianist
Beethoven!
When I decided to do an all-Beethoven program this year, I knew that I wanted to finish with the late Sonata in A-flat major, op. 110. The op. 26 Sonata made a natural opener, being Beethoven’s only other piano sonata in A-flat major. And, I’d always wanted to play op. 2, no. 3—one of my favorite of the early sonatas. The so-called “Moonlight” Sonata, op. 27, no. 2, seemed a good foil to op. 110, since they are both pieces that could fit Beethoven’s designation for the op. 27 sonatas as “quasi una fantasia.”
Looking at this group of sonatas, I realized that they make an interesting point: Beethoven’s idea of “sonata” is considerably harder to pin down than we might imagine. I was reminded of the parable of the blind men and the elephant, in which we learn that by encountering only one part of the elephant, we can be misled as to its substance: is it a snake, a rope, a tree trunk, or a wall? By looking at one Beethoven sonata, and assuming it is typical, we can be misled about the totality of the idea of the piano sonata, at least in the hands of this composer whose contributions to the genre were seminal and remain unequalled.
ディヴィッド・コレヴァー、ピアニスト
ベートーヴェン!
今年はオールベートーヴェンプログラムにすると決めた際、後期ソナタ、変イ長調作品110で最後は締めくくろう、出だしは二つだけのもう一つの変イ長調、ソナタ作品26ではじめよう、そうするのが自然だと思っていました。そして私のお気に入りの初期ソナタの一つ、作品2-3はいつも演奏したいと思ってきたものですし、世に言う「月光」、ソナタ作品27-2はソナタ作品110を際立たせるのに相応しい。なぜならこれら二つの曲はベートーヴェンが作品27で“幻想曲のように”と指定した曲想に通じるからです。
このソナタ群から一つの興味深いポイントに気付きました。それはベートーヴェンが考える“ソナタ”というものはわれわれが想像する以上にその定義が手強いことです。盲人とゾウの譬えではありませんが、ゾウのある一部だけに触れて、これは蛇だろうか、ロープだろうか、木の幹だろうか、いや壁の一部だろうかと勘違いするのと同じように、ベートーヴェンのある一つのソナタだけを見てこれがその典型だと見做すことはピアノソナタの全体像を見誤るおそれがあります。少なくともこのジャンルで発生根源的に貢献しいまだ比類のないベートーヴェンの手になるピアノソナタにおいては然りです。
The first sonata on this program, the Sonata in A-flat major, op. 26, was composed in 1801. It represents an important departure for Beethoven: he had, in fact, established a kind of normative sonata form, with three or four movements, the first in sonata form, the finale in a rondo or sonata form, and a slow movement and (optional) dance movement in between. With op. 26, he abandons the sonata form movement altogether, opening instead with a moderately slow (Andante) theme and six variations—a procedure used by Mozart in the famous A-major Sonata, K 331, that concludes with the Rondo alla Turca. A playful and virtuosic scherzo follows. The third movement, in A-flat minor, is entitled (in Italian) “Funeral March on the Death of a Hero.” This remarkable movement became, in Beethoven’s own orchestration, something of a popular hit, and was played at the composer’s own funeral. The finale, abandoning any melancholy or mournfulness, is a bubbly perpetual motion Rondo, ephemerally fading away at its conclusion.
The C-major Sonata, op. 2, no. 3, is the final entry in Beethoven’s first group of published piano sonatas, presented to the world (or at least Vienna) as a kind of calling card in 1795 with a dedication to Haydn. It is the most ambitious and
virtuosic of these three, with all four movements conceived in a large scale and demanding about as much as possible from both performer and instrument.
このプログラムの最初のソナタ、変イ長調作品26は1801年に作曲されました。このソナタはベートーヴェンにとって重要な旧来法からの逸脱を表わしています。実際のところ、ベートーヴェンはそれまでに三または四楽章で構成されたソナタの規範形式を確立していました。第一楽章はソナタ形式、終楽章はロンドまたはソナタ形式で、その間に緩徐楽章や(随意に)舞踊楽章を挿入するというものでした。しかし、作品26では既定のソナタ形式による楽章は全面的に捨て去り、代わりに、程よく遅い(アンダンテ)主題と六つの変奏曲で始めました。―モーツァルトが有名なイ長調ソナタ、K331、トルコ行進曲付きで用いた手法です。次に陽気で技巧的なスケルツォが続き、第三楽章は変イ短調で、(イタリア語で)“英雄の死の葬送行進曲”と名付けられています。この珍しい楽章は、ベートーヴェン自身によるオーケストレーションで人気を博し、彼自身の葬送でも奏でられました。最終楽章からは哀愁とか悲愴といったものを一切捨て去り、生き生きとしたロンドの動きがいつまでも続きます。しかしそれも最後にははかなくも消え去っていきます。
ハ長調ソナタ作品2-3は、ハイドンに献呈するために1795年に世に(あるいは少なくともウィーンに)一種の挨拶代わりとして送り出し出版したベートーヴェンの第一ピアノソナタ集の最後に収められています。これら三曲の中でももっとも野心的で技巧的な四楽章で構成され、演奏者からも楽器からもできるだけ多くのものを要求する大きな規模で考えられたものです。
Beethoven also shows off his composer chops by using a complex of themes throughout the sonata that are derived from the opening gesture of the first movement. And, in a touch worthy of the master Haydn himself, the beautiful Adagio second movement leaves the world of C major far behind, beginning instead in the warm and apparently unrelated tonality of E major.
While the two sonatas on the first half of this program share a clearly articulated four-movement design and a sense of classical balance, both op. 27, no. 2 and op. 110, while nominally three-movement works, blur the lines between movements and show a distinct dramatic thrust toward their conclusions—a far more “Romantic” approach to building a large-scale work. Op. 27, no. 2 (1801), with its famous Adagio opening movement (to be played “una corda” and with the strings undamped), is given the subtitle “quasi una fantasia.” (The name “Moonlight” seems to have first appeared in a novel in 1824, and was popularized in the 1850s.)  The movements are indicated to be performed without pause. The sonata form is reserved for the finale, a dramatic and stormy exercise in C-sharp minor whose arpeggiated gestures represent a bold transformation of the material of the opening Adagio.
またベートーヴェンは第一楽章の冒頭モチーフから派生した複合的な主題をソナタ全体に駆使して作曲家としてのキレも誇示しています。そして巨匠ハイドン自身のタッチよろしく、美しいアダジオの第二楽章はハ長調の世界を遠くに追いやって、代わりにホ長調の温かく、無関係なこと明らかな調性で始めています。
このプログラム前半のソナタ二つは明確な四楽章構成で両方とも古典的バランス感覚が生かされていますが、作品27-2と作品110は、名目上は三楽章ながら、楽章間の線はぼやけ、結末へ向けて独特の劇的な推力を示しています― はるかに“ロマン派的”なアプローチでスケールの大きな作品を創っています。作品27-2(1801)は、その有名なアダジオで始まる楽章(ウナコルダ、ダンパーペダルを踏んだまま)は“幻想曲のように”という副題がついています。(“月光”という名前が初めて小説に登場したのは1824年らしく1850年代に広まりました。)全楽章が休止なしで演奏されるようにと指示されています。ソナタ形式はフィナーレまで取って置かれアルペジオで展開される劇的な嵐を呼ぶような嬰ハ短調のモチーフは冒頭のアダジオ素材の大胆な転換を表わしています。
The A-flat major Sonata, op. 110 (1821), compositionally and emotionally exploratory, looks (as Charles Rosen suggests) backward and forward, combining the forms of the classical sonata with structures reminiscent of the Bach-era toccata with its alternations of free and fugal writing. While the Moderato opening movement is in sonata form, it is primarily lyrical and quietly searching. The F-minor Allegro molto that follows represents a reinterpretation of the scherzo idea, now in duple meter. It features extreme dynamic contrasts and at times vertiginous passage work. An evanescing F-major chord leads the music directly into the final movement, which represents over half of the length of the entire sonata. This movement begins with a free recitativo (incorporating a remarkable imitation of the clavichord’s vibrato-like bebung effect) that moves from B-flat minor to A-flat minor. The Arioso dolente that follows is one of Beethoven’s great late utterances, heartrending in its eloquent simplicity. An A-flat major fugue follows, only to be interrupted by a return to the Arioso, now a half-step lower in G minor and overwhelmed by sadness. The previously smooth and uninterrupted melodic line is now presented in a way that seems to gasp, choked off and sobbing from grief. A remarkable series of G-major chords, rhythmically displaced from the beats, and augumented by the use of the pedals leads into a return of te fugue, now inverted, beginning in G major. In an unprecedented cycling of tempo, a long accelerando effectively doubles the tempo on the way to A-flat major and the triumphant return of the original subject at the original tempo superimposed over figuration derived from its own sextuple diminution.
変イ長調ソナタ作品110(1821年)は作曲面からしても感情面からしても探検をする構えで、(チャールス・ローゼンが暗示した通り)後退的でもあり前進的でもあり、古典的ソナタ形式と自由さとフーガ的技法が交互に表わされるバッハ時代のトッカータを彷彿とさせる合体ものです。モデラートで始まる楽章はソナタ形式であっても、基本的に叙情的で静的な探究ものになっています。引続くヘ短調のアレグロモルトはここではスケルツオ概念の二拍子による再解釈を示しています。それは極端なまでのダイナミックな対照と時々目眩がするような音節の運びを特長としています。はかなく消えていくヘ長調和音はソナタ全体の半分以上もの長さに亘る最終章へと真っ直ぐに導いています。この楽章は自由なレチタティーヴォで始まり、(クラヴィコードのヴィブラートに似たベブング効果の真似を著しく織り込み)変ロ短調から変イ短調に移っていきます。続くアリオーソドレンテは簡素ながら雄弁に響くベートーヴェン晩年の悲痛な大叫びです。次に変イ長調のフーガが続きますが、これはアリオーソへの回帰によってのみ中断され、ここではト短調で半音下がり悲しみで圧倒されます。以前は滑らかで途絶えることのなかった旋律線が、ここでは喘ぎ、思い止どまり、悲しみで嗚咽するかのように描かれています。注目すべき一連のト長調和音はリズムの点で拍子からずれ、ペダル使用により増幅されてフーガに戻り、ここで反転してト長調で始まります。前例のない周期でアッチェレランドが変イ長調に至る途上で効果的にテンポを倍増し、最初のテンポで元の主題へと成功裡に戻り自身の六重のディミヌエンドから派生した形態に重ね合わせられています。
曲目解説原文 Dr. David Korevaar
アメリカ・コロラド大学教授
訳出        中西隆夫
The Music Center Japan 専務取締役
To top