芦屋のクラシック音楽コンサートホール

兵庫県芦屋市東芦屋町3-9
TEL:0797-55-0730

ブログ

音楽

2021.07.02

パリ国立高等音楽院教授、イヴ・アンリ氏とともに

 

夜空に蒼く輝く月、その光に照らされた白い雲片。その下に広がる喜びの島、月の光が島の稜線を照らしている。海はどこまでも暗く黒く底に向かって神秘の光を放っている。海上に生起する寄せては返す虹の波。アラベスク風の高台で水を吐く噴水。独り高く上がっては崩れ落ち水盤を満たす。水の反映だ。これはドビュッシー没後百年を記念して私が描いた詩的散文の絵である。

今日のイヴ・アンリのピアノを聴きながら絵に共通しそうな楽想に想いを馳せていた。ショパンがピアノの詩人と呼ばれ、画家のドラクロワと色彩感について大いに論じ合ったように、ショパンの後継者のドビュッシーもまたいかに音で色彩を表わすかで苦しんだようだ。イヴ・アンリの演奏を聴いていて、曲の楽想がそもそも脳裏になければ、それを表わす色彩感も何もあったものではない。音楽を志す人は音楽以外にもっと詩や文学、絵画にも関心を示してほしいと思った。天に向かい、水底に向かって放つ神秘の色は最弱の、無音の長い音ではないだろうか。
2012年7月ブリジストン美術館で開催された「ドビュッシー、音楽と美術-印象派と象徴派のあいだで」の解説書を読むと、次のようにある。ドビュッシーが、神秘への嗜好、彼岸への逃避の絶えざる憧憬を持ち、内省と不安の象徴的風景である深淵のほうを向いていた。音楽の定義でも、ドビュッシーは迷わず暗闇のイメージを選んだ。  「音楽は語りえないもののために作られる。私が望むのは音楽があたかも影から外に現れ出たかのように感じられること、そして折々影の中に帰っていくこと…」で、あまり明るいものは好まなかったようだ。それでこのような闇の絵を描くことにした。
                         (2018.9.16)

aiuwep

2021.07.01

クラシック音楽って

 日、かつてベストセラーになった「絶対音感」(最相葉月著)を読み直していて、あの世界的に有名な作曲家にして指揮者、L.バーンスタイン(ミュージカル“ウエストサイド物語”の指揮など)の「音楽って何?」と題する言葉に出会った。孫引きの上、我田引水めくので恐縮だが、ちょっと引用してみたい。「…大切なのはこのリズムが僕たちを興奮させ、ワクワクさせてくれること。…ワクワクするのは、ワクワクさせるように音楽が書かれているから。…みんなだって何かが自分に起こったとき、踊ったり歌ったりして、自分の気持ちを表現してみたくなることってあるでしょう?絶対あるよね。作曲家にもあるんです。…音楽の意味っていうのは、これなんです。シャープとかフラットとか和音とか、むずかしいことをたくさんわかる必要はないんです。もし、音楽が何かを私たちにいおうとしているなら、その何かというのは物語でも絵でもなく、心なんです。もし音楽を聴いて、私たちの心の中に変化が起こるなら、音楽が私たちにもたらすいろいろな豊かな感情を感じることができるなら、みんなは音楽がわかったことになるのです。音楽とはそれなんです。物語や題名はそれに付随したもの。そして、音楽が素晴らしい点はみんなにいろいろな違った感情をもたらすことができること。それには限界なんてないんです。…音楽は音符の動きです。忘れてならないのは、音楽は動いているということ。たえずどこかへ動き続けます。音符から音符へ飛んで、変化して流れていきます。そしてそれが、何百万という言葉でもいい尽くせない心を伝える方法なんですね」

(p240~242)
私自身、音楽はそのようなものとずっと考え、その考えに基づき自分のホームページを作ってきた。が、内心いつもどこかで忸怩たるものがあった。今月、これを読んで心底救われた。今までの姿勢を貫いてよろしいとこの天下の指揮者にお墨付きを貰った気分になった。もう一度要約すれば、①専門知識より心、②いろいろな感じ方があっていい、③音楽は動いているもの、④言葉では言い尽くせない心、この四要件になる。
相当以前の話だが、うちでクラシックファンが集まってクラシック音楽について語り合ったことがある。この機会にそのことについても少し触れておきたい。
まずこんな質問が出た。クラシックはどこで聴くものか。A君「ロックなどはからだ全体で聞く。演歌などは胸で聴く。クラシックは頭で聴くものと考えられがち」B君「クラシック愛好者も最初は胸で感動していたが、知識が増えるにつれ頭で聴く傾向が出てきた。クラシックには教養主義的、形而上学的色彩が濃く、俗化させたくない意識がある」B君「よって<超技巧…>などと一般受けしない表現が多い。「英雄」などの副題があると大分違う」中西「マニアックな人たちの話題にはついていけない」
次の質問。本当にクラシックファンは少ないのか。C君「隠れたファンはいるにはいるが自らファンと名乗ることは少ない。何かのキッカケでそれが判明する。次。クラシックはどうして近づきにくいのか。B,Dの両君「今は視覚偏重の時代。視覚に訴えられないものは受けない。聴覚だけでは物足りない」E、B君「今はインスタントな時代。ちょいちょいといいところだけをつまみ食いする時代。長々と半時間、一時間と聴く辛抱がない」中西「今はラフな時代。姿勢を崩さず、咳一つせず、静かに居座る苦痛に耐えられない」次。クラシックの質は。D君「クラシックは20世紀前半までに作曲されたもので作曲者の顔が見えない。親近性がない。舞台の演奏家と聴衆の間に一体感がない。舞台と客席の間の物理的、心理的距離が問題」B君「楽譜に忠実に演奏することが求められるものゆえ、創造性に乏しい」など。
前号でも書いたが、人それぞれに好きな音楽を聴けばよい。それが心を打つものであればジャンルを問うことはない。しかし今あらためて思うに、他のジャンルの音楽を聴いて、今のようなコメントが書けるだろうかと。むしろクラシックだからこそ書けているような気もする。それほど強くクラシックは私の心を打っているのかも知れない。
ホームページ
www.diana.dti.ne.jp/~tmcjapan
 
(2004.2)

2021.05.18

Spring Joint Concert 客演:青柳いづみこ先生(ピアニスト、文筆家)

 今日も昨日に引き続きサロンでジョイントコンサートがあった。客演はピアニストで文筆家の青柳いづみこ先生。そのラヴェルの組曲『マ・メール・ロワ』の演奏はプログラム作成時から楽しみにしていた。私はかねがねラヴェルが好きだ。「鏡」の絵も描いた。今日はその演奏を聴きながらなぜラヴェルが好きなのか、どこが好きなのかあらためて自問自答してみた。聞きながら頭を過ったのは、おどけ、諧謔、皮肉、逆転などの言葉だった。なるほどそのような要素は私にもある。これはダンディズムだ。クールで、言葉巧みで、しゃれっ気がある。ラヴェルはそんな曲を作ったのだ。それを青柳いづみこ先生と乾将万さんが連弾で見事に表現されたのだった。もう一つの音楽美だった。

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